第二章・番外編「津軽三味線」03.08.14.〜17.


畑山温泉民宿(客舎)

寒さと雪対策のため玄関が二重になっている家が多い

弘前のねぷた

序章・ねぷた

2003年8月14日〜17日、自然館に果物を出荷してもらっているあおくまさんを訪ねて、青森県弘前市まで行って来た(御興味のある方は「生産者訪問記」を御覧ください)。間際になって決めたため、自動車移動も止むなしだったのだが、「大阪→青森」は、何と20時間以上。

祈るような気持ちで待っていた飛行機のチケットが、1週間前になってようやく取れ、一路青森空港へ。しかし、青森県が広いことを忘れていた。

飛行機は夕方6時に着いたのだが、目指す弘前市まではバスで1時間、あわてて宿に電話して、食事を遅らせてもらう。

さらに、弘前駅に着いてみると目指す大鰐温泉まで向かうバスはすでに終了。JRの次の電車は1時間後、待っていたら宿に着くのは、9時を過ぎてしまう。

泣く泣くタクシーを飛ばすことになったが、しょっぱなから痛い出費である。さらに、宿に着いてみると、1人で泊まるはずなのに2人分の食事が・・・。

ただでさえ待たされて機嫌が悪いおかみさんの目尻があがっている。「確かに2人って聞いてますから、直接話してください!」と受話器を突きつけられてしまった。

「北は鬼門だったか。」とつぶやきつつ、電話に出てみるとどうやら別人。しかし、おかみさんはおさまらない。留守だったらどうしようと思いつつ、冷静を装いあおくまさんに電話をかける。

あおくまさんが「しょうがないから私が行って泊まりましょうか。」と言ってくれて、ようやく、おかみさんもおさまったようで、「こちらの間違いだったようですみません。」と一件落着。やれやれ、先が思いやられる。

初めての青森でしかも初日から、結構ハードな出迎えを受けてしまったのだが、こちらは最近、沖縄的「なんくるないさー(なんとかなるさ)精神」が身についてしまっているため、「難儀ーだけど、しょうがないねー。」

どちらにしても、待たせている訳なのでとにかく食事を済ませ、風呂に入って翌日に備える事にした。

翌日は、朝から軽トラで果樹園をまわり、昼過ぎから時間が空いた。「どこか行きたいところがありますか?」と、あおくまさん。普通こういう場合、初めてなんだし、八甲田山とか弘前城とか言うもんだが、「ねぶたか津軽三味線」とかわいげのない身勝手な返事をしてしまった。

「う〜ん。津軽三味線を聴ける店は、夜でないとやってないと思うので、取り敢えず、ねぷた村にでも行ってみましょう。」弘前では「ふ」に「○」で「ねぷた」と書くらしい。

ねぷたはとても大きい。それを競う傾向があったため、過去には背の高さの上限を定める法律も施行されたらしい。今でも、ねぷたの一番上には電線を避ける係りが乗る。だから、祭が終わった後、保存しておくところがない。それで毎年新しいものが作られるので、季節はずれに実物を目にするのは困難となる。

あおくまさんが連れて行ってくれたのは、「津軽藩ねぷた村」、いわゆるテーマパークである。この手の施設にはあまり期待すると後でしぼむことが多いのだが、入ってすぐに度肝を抜かれた。

大きいとは聞いていたが、こんなに大きいとは想像できなかった。三階建ての家より背が高い。こんなものを、引っ張って町内を練り歩くとすればそれは大事である。骨組みの土台は鉄で、その上に木で組んだ骨組みが乗り、中はてっぺんまで吹き抜けになっている。

あおくまさんによれば、昔は、土台の上に取り付けられる武者絵には厚みが無く、団扇を大きくしたようなもので、電線のところまで近づくと上部を折り曲げてくぐっていたらしい。現在では、電灯も取り付けられ、夜になると、絵柄が浮き上がるようになっている。

巨大なねぷたの隣には、太鼓が3台並べられ、ねぷたの太鼓が笛や鉦のお囃子入りで休みなく実演されている。実際の祭に使用される太鼓なので、室内で聴くとかなりのボリュームである。

この太鼓は、他の地域のものとは違い、ウイスキーの樽のように組んでタガで止めてある。北国でくり抜けるほどの材が少なかったからかも知れないが、逆にかなり大きなものを作ることができる。去年の祭では、直径3.3mのものが2つ、4mのものがひとつ、街を練り歩いたそうだ。

ひとりなら、ここでたっぷり1時間というところなのだが、後でおさらいすることにして、ねぷたと囃子の楽譜を求め、先を急ぐ。

武者絵の元は「三国志」や「水滸伝」であるという展示だとか、郷土の版画家棟方志功作の原画であるとか、現在の武者絵作家の作品などを横目に進んでいくと、何と、三味線の音がしているではないか。さすが本場津軽である。ねぷたのテーマパークに津軽三味線の実演があった。

最近の流行を繁栄してか実演中は通路いっぱいの見物客で、手元がよく見えないのだが、とにかく三味線がでかい。ただし、ヴァイオリンとコントラバスほどの違いではないから、弾いて弾けないものではなさそうである。

などとあたりをつけていると、演奏が終わり拍手の後、客がスッと退いてしまった。「行きましょうか。」というあおくまさんを無視して、控えに直行「すみませ〜ん。」。

演奏者は地元保存会のボランティアの方だったのだが、休憩中にもかかわらず、三味線を持たせてくれた。やはりかなりでかい、そして重い。左手には指ぬきのようなものを親指から人差し指に渡して装着し、右手はと言うと、小指から絡ませるようにバチを構える。

楽器の方は、糸巻きに金属の輪がはめてある。これだけでかなり上等そうに見える。棹は継いであるが塗りはない。この継ぎの、上の方が「四」下の方が「六」の音の位置だそうである。「二上がり」の中弦と同じと言っておられたので、「六」=「上」である。

練習用の楽器だからと思われるが、弦は太めの樹脂製、皮のバチが当たるところには透明の保護シートが貼ってあった。持たせてもらったので、弾いてみる。ふと、思い出して、あおくまさんの方を見てみると、ニヤニヤしておられるので、もう少しの間は大丈夫であろう。

何も自己紹介はしなかったのだが、言われるままに手を動かしていると、「あなた、三味線やってるでしょう。」とバレてしまった。まあ、隠していたわけではないのだが、見る人が見ればすぐにわかるということか。大きさやバチの形は違っても鳴らし方は基本的に同じだと言うことなのであろう。

「せっかく津軽まで来たんだから、沖縄の曲をやってみてよ。」と言われて、何か変な雰囲気になってきた。誰もいなかったはずなのに、いつの間にか、周りにギャラリーも出来ていて、拍手まで起こる。

こちらのレパートリーを演奏するとなると、音を正確にとらなければならない。棹の長さが変われば、押さえる場所もかなり違ってくる。津軽と言えば、早弾きだが、慣れない勘所(指で押さえる位置)で早弾きの曲は無理である。

とすれば、二上がりのまま、ゆったりとした曲でしかも勘所の近い曲が理想である。私は、いくつかの勘所を探りながら頭の中で選曲を始めた。思った以上に、人差し指で押さえる音が遠い(沖縄の三味線なら中指の位置)、と言うことは中指も(沖縄の小指より遠い)・・・、私の選曲の方針は間違っていなかったらしい。

「月ぬ美しゃ十日三日、美童美しゃ十七つ、ほーいーちょーが」。多少、音はズレてしまったが、「月ぬ美しゃ」の一節を無事唄うことが出来た。自分で言うのも何だが、初めてとしては上出来である。

ここもひとりだったら閉店までいるところであるが、御礼を言って後にする。短い時間ではあったがとても貴重な体験となった。見ると触るのでは大違いである。私の場合、触ってみる方が断然楽しい(で、また欲しくなってしまうのであるからほとんど病気である)。


公衆浴場

温泉の街ならでは

消火栓も味が出ている

電話番号の鑑札

静かな街である

羽黒神社の龍(足の指に注目)

大国寺の龍(足の指に注目)

散髪屋(6軒以上)

はきもの屋(3軒以上)

手作りのいなり寿司

送り太鼓

大鰐温泉街を歩く

明けて翌日、少し晴れてきたので、午前中から大鰐の街をぶらついてみる。あおくまさんによれば、弘前に鉄道が出来たことで人の流れが変わり取り残された、かつて流行った温泉療養地である。これと言ったレジャー施設があるわけでもなく、そこここに民家レベルの温泉民宿(客舎=生活道具を持ち込み自炊しながら湯治する客のための宿舎)や公衆浴場がみられる。

都会から来たもののノスタルジーかも知れないが、街は静かで浮ついた感じが無く、ゆっくりと時が流れている感じがして、気持ちがいい。こういう街を歩いていると、普段は見逃してしまうような色々なことを見つけられて面白い。

宿を出てすぐの小高いところに、羽黒神社があった。登ってみると山門の柱に龍が巻き付いている。足を見てみると指は3本である。ひとまわりして川の反対側にある大国寺にも龍がいた。こちらは、手を清める水場であるが、この龍も足の指は3本。

これは、沖縄の首里城で知った話だが、寺社に龍を配置するのは、中国から伝わった風習で、守護のためである。一般のものについては、指が3本、皇帝を守る龍だけに4本指の龍が用いられる決まりだそうである。その話を聞いて以来、龍の足の指が気になるというわけである。

大鰐の街をひとまわりするのに、2時間もあれば十分であったが、妙なことに気が付いた。やたらに散髪屋が多いのである。これは、ヘアサロン(いわゆるパーマ屋)は別勘定である。このサイズの街に、6軒以上もあり、ひどいところだと、はす向かいにあったりする。しかも、そのそれぞれに、朝から(散髪屋だから全員男の)客がいるのである。神の手入れに敏感な男性が多い街である。伸びてきたら、しょうがなしに自分で切る私とはえらい違いである。

次ぎに多いのがはきもの屋である。同じような品揃えで、3軒以上もある。営業しているのかどうか微妙な店は、除いての話しだ。こちらは、まあ雪が積もる地域なので、冬場重宝されるのかも知れないが、都会ではとっくに見られなくなった風景だ。

ちょうど昼過ぎになったので、宿に帰って昼食にする。昨日いただいたいなり寿司である。これは、あおくま家ののおばあちゃんの手作りだ。少し甘めにしてあるが、粕漬けのキュウリと生姜と良く合って、ちょっとした運動の疲れ取りになってくれた。ごちそうさまでした。

あおくまさんの村では、お盆に送り太鼓をたたく。お盆の間、夕方6時になると、毎日交代で墓地に太鼓を持ち込んで叩き、稲藁を焼き、霊を送る。本来、村の中の行事なのだが、無理を御願いして同席させていただいた。太鼓やバチは、ねぷたで用いるもの、リズムも良く似ているが、こちらは、笛や鉦のお囃子はなく、太鼓のみで、時々演奏者のアドリブが入る。

今は、コンバインになってしまって、藁が刻まれて出てくるため、燃やすための藁が少なくなったとか、人が集まらない年には出来なかったこともあるとか、そんな話を聞いていると、地元に伝わる、行事を伝え続けていくのは並大抵のことではないのだとあらためて実感する。

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