第36回八重山芸能発表会・2003年12月6日(土)琉球新報ホール


ゆいレール

結構市民の利用者が多い

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脚絆にアイロンかけ

リハなので衣装はまばらだが

間近で見ることが出来る

お化粧は舞台の裏で

最終ミーティング

幕間の部員紹介

打ち上げ会場で赤馬節

12月6日(土)8:30伊丹空港を目指して家を出る。コンクール受験以来、約半年ぶりの沖縄である。続けて那覇空港に降り立つことになったのは最近では珍しい。

今回の目的は、八重芸(琉球大学八重山芸能研究会、以下八重芸)の定期公演である。八重芸の公演を観るのは初めてではない。だが今回は、OBで大阪在住の○畑さんの御好意で、関係者でもないのに、舞台裏を手伝わせていただくことになっている。

空港から、半年前にはまだ完成していなかった「ゆいレール」に乗って、琉球新報ホールへと向かう。ホールは、琉球新報社の建物の中にあるのだろうと、あたりをつけていたので、正確な地図や住所を持ってこなかったのがまずかった。

中に入ったことこそ無かったが、過去に何度も前を通っていたので良く知っているつもりになっていたのだ。空港の案内所で教えてもらった駅からは自力でたどり着けず、ゆいレールに乗り直すはめになってしまった。油断は禁物である。

琉球新報社のビルは、歴史のある建物らしく静かに存在を主張していた。エレベーターの中の案内に、「宮古毎日新聞那覇支局」とか「八重山毎日新聞那覇支局」などの見慣れた文字を見つけてひとりでうけてしまった。

楽屋に着いたら、前夜に那覇入りしていたhiroさんが、もうアイロン(hiroさんはこの道具を熱鏝と呼んでいるが、その話をしだすと長くなるので、別の機会に譲る)かけに奮闘していた。hiroさんは大阪で琉球古典を学びつつ、八重山民謡にも取り組む熱心な民謡ファンである。知っている顔を見ると心強い。早速、一緒にアイロンをかけ始める。

○畑さんは、写真担当であちこちと休むことなく動いておられたが、その合間に気を遣って下さって、リハーサル中の舞台を覗かせていただいた。まだ衣装や化粧がバラバラな状態なのだが、かえってリアリティを感じる。なにより、身近で手足のさばきを見ることが出来るのがありがたい。舞台上の細かい指示も、とても参考になる。

大阪に住んでいると、八重山民謡の舞台を観る機会はとても少ない。同じ民謡を学ぶ者にとっては、知識を深める絶好の機会なのである。唄も三味線も私達が普段演奏するものとは微妙に違っているし、独唱以外の演目にはほとんど踊りがつくので、普段は出来ない地方(じかた=踊りの伴奏)の勉強にもなる。客席からは直接見えないようになっていた地方のボックスは、手作りかと思ったが、どうやらホールの備品らしい。驚いた事に、客席から見えなくても楽譜は使っていない。暗譜しているのだ。練習量とレベルの高さがうかがわれる。

今年は、与那国で夏合宿をしたと聞いていたので、島独特の芸能の方も楽しみである。特に、「ドナン(渡難=与那国の別名)スンカニ」という与那国を代表する民謡の大会で優秀賞を受賞した部員がいるので、期待は高まるばかりである。

舞台とアイロン部屋を行ったり来たりしながら、手伝っているのか邪魔しているのかわからない状態で、時計は進んでいく。いよいよ、最終のミーティングだ。部員たちの緊張感が徐々に高まっているのがわかる。

ここまできたら、もう私達に手伝えることはない。○畑さんのアドヴァイスに従い、舞台に近い席を確保する。開演15分前だというのにもう立ち見がチラホラ出始めている。この後も増え続けたので結局20%位は定員をオーバーしていたのではないだろうか。ものすごい集客力だ。

ブザーが鳴って、赤馬節の歌持ち(前奏)が聞こえてくる。女子の新入部員7名が、息の合った舞いを披露してくれる。始めて数ヶ月しか経っていないとは思えない、堂々とした舞踊である。この曲には、ちょっとした、思い出がある。今年の正月休みに、八重芸の練習に参加させてもらったのだが、その時にはまだ覚えてなくて、地方が出来なかったのである。今度、八重芸の練習に参加させてもらう機会があれば、是非、合わせてもらいたいと思っていた曲である。今回はかなわなかったが、唄を覚えてから観る舞踊は見方が変わる。時間もとても短く感じた。

続けて、しゅうら節、高那節と舞台は進んでいく。ここから先の解説は、きっと、○畑さんの方が適任であろう。(○畑さんの詳細なレポートはこちら)独唱に入って、舞台の様子が気になりだした。ちょっと、おかしいのである。あとで、○畑さんに聞くと、「調弦(チンダミ)が合ってなかったし、その合ってない調弦に唄がつられていた。」とのことであった。「経験の浅さが、舞台でマイナスに働いた。」一瞬ドキッとした。私自身たいした経験もないまま、この7月に同じ曲で民謡コンクールを受験しているのである。「一年や二年では本当の声にはなりません。」また、ドキッである。そうだ、自分もたいした経験もないくせに、はずかしげもなく人前で唄っている。冷や汗が出てきた。なんか、とても他人事とは思えなくて、彼のことを思いっきり応援したくなってきた。次は(石垣公演27日)頑張れよーっ。

独唱の最後はどぅなんとぅばるまである。さすが、すんかに大会の優秀賞受賞者だけあって聴かせてくれる。とても大学生とは思えない。もっとも、八重山では、保育園児でも民謡を唄うから、大学生ともなれば唄っても誰も驚かないとは思うが。

続いて島の芸能に入り、波照間の五月雨節(ゆどあみぶし)が始まる。私の好きな曲である。石垣の楽譜(工工四)には、夜雨節として、収録されているが、まったく似て非なるものであると改めて感じさせられた。波照間のものには心の奥底からこみ上げてくる叫びとも似たようなものが感じられるような気がするのである。

感動している間に舞台は回り、与那国の棒踊りが始まっている。棒とカマ、小さい刀、薙刀、を持った若者が、太鼓の音に合わせて登場し、ちょっとした立ち会いを演じるのだが、これが、迫力があって、客席から盛んに拍手と指笛の喝采を受けていた。3月に小浜島のちゅらさん祭に行った時も、青年会が、同じような芸能を披露していたが、太鼓が違っていた。与那国のは、5つの太鼓と独特な高い音の笛が、緊張感に拍車をかけるようで、否が応でも迫力が増していくという感じであった。

喝采の中幕がおり、部長が挨拶にあらわれる。部員紹介のコーナーである。今年は新入部員が多く、チームワークもいいらしく、来年、再来年の公演が今から楽しみである。ちょっと、不思議なのは、部員の半数以上が、県外者であることだ。○畑さんの現役の頃は、○畑さん以外は全員沖縄出身者であったらしいのだが。それにしても、立派な舞台である。

第二部のテーマは、旅願い、旅が人生の一大事であった頃の物語を、表現した。打ち上げの時に、「どうでしたか?」と聞かれて、調子に乗って、「船はもっと大きい方が良かったんじゃないですか。」とか、言ってしまったのだが、彼らなりのこだわりがあるらしく、「劇団じゃないので。」と却下されてしまった。適当なことは、言うものではない。

最後は、私がいつかこんな風にしたいと憧れている、浜遊びである。猫小、あぶじゃーま、川良山と唄える曲も増えてきたので、がぜん盛り上がってしまう。思わず、唄いだしてしまい、hiroさんに白い目で見られてしまった。すみません。

エンディングは、定番の六調なのだが、これがなかなか終わらない。部員たちは、客席に、客席からは次々と舞台へと踊り出し、会場内は騒然とした状態が続く。ようやく、部員たちが舞台に戻り、弥勒節を唄い出すと、今度は急に帰る人が出始める。正しい八重山人の行動であるが、見てると何だか筋書き通りすぎておかしい気もする。

椅子も片付けて、道具も運び出し、さて、打ち上げである。

打ち上げ会場は、国際通りのとある居酒屋だった。そこに、三味線と太鼓をごく普通に持ち込む客も客だが、何も言わない店員も店員である。やっぱりここは沖縄なんだ。メンバーが揃って乾杯の後、OBの方たちから、チェックが入る。打ち上げというのに、真剣である。「次(石垣公演)は頑張ってもっと良いものを見せてもらいたい。」みんな、上手になるはずだ。

程なく、三味線が鳴り始め、赤馬節の舞踊が始まる。公演の復習である。新入生は、飲み食べするヒマもあまりない。しかし、三味線が鳴り始めると、サッと扇を取り出すあたり、なかなかのものである。曲が終わって、新入生の感想、続いて二年次が終わったところで、一次会がお開きとなった。あまりに、会場が横長すぎて、声がよく聞こえないので、場所を移そうと言うことになったらしい。

最後に、みんなで細長い輪になって、どぅんたを踊る。これも、○畑さんから、教えていただいてたので、ある程度、唄えて踊れる。長い長い輪が、地響きに似た音をあげながら、何度も何度も部屋の中をまわった。このドゥンタを経験した部長は(それが理由かどうかは定かではないが)「どぅんたはお客さんと一緒にやりたい」と演目の変更を検討しているらしい。私は行けないが、石垣の公演がどうなるか楽しみである。

二次会にも誘われたのだが、場所が浦添で大分離れているのと、○畑さんが、参加されないということで、ホテルに帰ることにした。帰る道々どぅんたが頭の中をぐるぐる回っていて、最高の一日だった。○畑さん、八重芸部員とOBのみなさま、本当に有り難うございました。


丸印に御注目下さい

あるでしょ、足が(上の○)

ここにも(下の○)

タダでもらっちゃった黒木

五弦の胡弓

朝6:00、朝食の一番早い時間である。しかし、すでにホテルの食堂は満員状態で、反射的に「ここは沖縄じゃないみたい」とひいてしまった。私の知っている、いや、知っていた沖縄の朝はもっと静かでけだるい空気の中にあった。まさか全員が那覇マラソンに参加する訳でもないでしょうに。いや、単に自分が酔っぱらって寝ていて気付かなかっただけで、沖縄の街は、これまでも、朝早くから、こんなにエネルギッシュだったのかも知れない、と、思い直してしまった。まるで、団体旅行客に紛れ込んでしまったようだった。

あっけにとられ、あるいは、まだ寝ぼけてボーッとしている間に、時間は過ぎていき、○畑さんが迎えに来て下さった。来てもらうと言うことは、こちらよりずっと早い時間にホテルを出られていると言うことである。ボランティアで色々案内していただくのに、全く申し訳ないと思ったのだが、お言葉に甘えてしまった。

それで、こんな朝早くからどこへ行くんだろう?というか、開いてるところがあるんだろうか、と、たずねてみたら、「多分、大丈夫でしょう。」の、御返事。うっ、またもや、これまでの常識が覆された。朝8:00から開いてる三味線屋なんて、「似合わない。」しかし、照喜名三味線店は開いていた。しかも、朝のすがすがしい空気に、とても、よく似合っていたのだった。

すがすがしいと書いたが、そのためには空気はひんやりとしていなければならない。しかし、御当主は、半袖のシャツに裸足、私は長袖に防風ジャケット、さらに靴下2枚である。戦争を生き抜いてきたエネルギーが体中から満ちあふれていると(勝手に)言えばいいのか、もう、すごい人であるとしか言いようがない。話をうかがっているだけでも、十分興味深く楽しいので、三味線屋さんであるということを、時々忘れてしまいそうになる位である。しかも、店の奥には教室もあって、古典を指導しておられる。

昔作った渋皮張りの三味線の話など、聞いてるうちに話の中に取り込まれてしまいそうだった。「こうやって、口で吸って、途中で止めて、器に吐き出す。ひとつじゃ足りないから、何度も繰り返す。それがたまったと思って安心して帰ろうとしたら、もともと芭蕉は、便利の悪いところに植えたんで、急な斜面で、足が滑ってしまってね、ほとんど、こぼしてしまって、ひとつだけしかはれなかったけど、もう一回やってみようとは思わなかったね。(文中の表現は記憶によるもので、おそらく私の大阪弁が混じってしまっていると思います)」

さらに、最近気になっている皮の厚みの話もうかがうことが出来た。しかも照喜名さんにかかったら、身振り手振りと語り口調で、見ているうちに蛇の皮が、動き出してしまいそうなほどである。当然ながら、時間はあっと言う間に過ぎていく。皮の話では、○畑さんに「そう言えば、あんたのためにとっておいたよ。」と言って、足の生えた皮(もちろんニシキヘビの)を出してきて下さった。そして私にも「あんたも良かったらもらいなさい。」はい、有り難うございました。

次に下の作業場も案内していただいて、黒木(黒檀)の話をしているうちに、黒木の切れ端もいただいてしまった。この照喜名さん、すごく研究熱心な方で、有名とされる名の付いた三味線の持ち主をわざわざ訪ねていって、写しを御自身で作っておられる。だから、三味線の姿形には詳しいし、御自身の作られる三味線の美しさには、自信を持っておられる。ただし、その自信は独りよがりのものではなくて、長年の研究の結果なのである。

ここまで書いておいて、まったく申し訳ないのだが、あまりの楽しさに、写真を撮るのを忘れてしまっていた。照喜名さんの自信作の一部でもお見せできないのが残念である。

車に戻ってみると、暴風ジャケットが要らないほど、気温が上がってきている。12月と言っても、やっぱり沖縄である。日中は、大阪より10度は気温が高い。

「この辺だったと思うんですが。」カーナビを確認しながら、○畑さんは、まるで、現地の人のように、レンタカーを操る。道端でゆんたくしてたお母さんたちに、「銘苅さんという三味線屋さんに行こうとしているんですが・・・。」と声をかけると同時に、持参したお菓子を渡している(後で聞いたら生八橋だった)。そう言えば、照喜名さんのところでも、渡していた。さすが、感謝の心を忘れないと書いておられる○畑さんである。さりげなさ加減が、とてもスマートだ。おかあさんたちも「キャーキャー」と言って(いたかは定かではないが)、大いにうけていた。

銘苅三味線店は、簡単に言えば、旅行者が、ひとりでは、決して行けないところにあった。板の間の作業場に続いた畳の間には、昼寝したら気持ちよさそうな、ソファにちょうどいい加減に、日が差していた。そして、部屋の反対側にあるテレビは、那覇マラソンを中継していた。

○畑さんは、この三味線屋さんに、注文しておられたようで、塗りのないきれいな黒檀の棹を見せていただいた。「なかなか、良い皮がなくて。」と、ようやくこの棹用の皮が手に入ったらしく、店の表に干してあった。この分だと年内には、完成するのではないだろうか。出来上がりが楽しみである。というのも、三味線というのは、100あれば100の異なった音色を奏でるという困った特徴がある。違うものに出会ったらまたつい欲しくなってしまうではないか。○畑さんの新しい三味線はどんな音を奏でるのであろうか(言っちゃって良かったのかしら)。

そして○畑さんが、テレビの奥の方を見て、「あれが、五弦の胡弓ですよ。」と、教えて下さった。いちいち、細かく気配りをして下さるホスピタリティには、本当に頭が下がる。すると、銘苅さんが「弾いてみたらいいよ。」と声をかける。「ほんとうにいいんですか。」と○畑さんが、普段は細長い目を丸くして、「弓はどこにあるんでしょうか?」私と違って、あくまでも礼儀正しい。

模範演技の後、銘苅さんに、ひととおりの演奏の方法を御指導いただいて(まったく何をしに行っているのやら)、○畑さんがまたもや「takarinさんもどうぞ」と気を使って下さった。とんでもないので、一応お断りしたのだが、さらに勧められて、体験させていただいた。完全に仕事の邪魔である。が、さわってみると、さらに色々なことがわかってやっぱり面白い。さらに、仕事の邪魔を続けてしまう。

五弦の胡弓は銘苅さんのオリジナルで、通常は三弦か四弦なのだそうだ。つまりは三味線と同じ調弦かそれプラス、もう一段階高い音(八)。この高い音を加えるのは、高音をより綺麗に演奏するためだそうである。そして、銘苅さんだけの五つめの弦は、三味線の一番低い音よりもう一段階低い音(不明)、なのだそうである。どういうわけか、この弦だけ、糸巻き(カラクイ)が短い。長くする必要がないからだとおっしゃるのだが、その理由は、結局わからなかった。

ちょっとさわってみただけなのだが、安富祖流の師範の生演奏をかぶりつきで聞かせていただいたおかげか、急にこの楽器に近しいものを感じるようになってしまった。危ない、危ない。

そして、何げに、銘苅さんが、カセットテープのスイッチをガチャリ。すると、良く通る聴いていて気持ちの良い、力強い、かつ、味のある歌声がきこえてきた。曲は、琉球古典のものなのだろうが、私には、知識不足でわからない。が、とても、良い声であることだけはわかる。聴いていて、引き込まれてしまいそうな声だ。「これは、私だよ。」とボツリ。胡弓の先生なのに、唄もめちゃくちゃうまいやん(失礼)。私の目は多分、点になっていたと思う。

他にも、目が点エピソードを始め、書くべき事はたくさんあるのだが、上述の○畑さんのレポートに譲る(○畑さんの詳細なレポートはこちら)。とにかく、これだけ、たくさん書くことが出来るのも、すべて、○畑さんが、隣にいて下さったからである。ひとりで、ふらりと入った三味線屋さんでこんな展開になったことは、今までには無かったし、大体三味線屋さんは無口である(と思っていた)。さらに、私が興味を持ちそうな話題を選んで下さったおかげで「ええ」と「まあ」だけに終わらずに会話に参加することが出来たのである。

さて、少し先を急がなくてはならない。銘苅さんのお店から、今度は西原町へ。こちらは、乗っているだけだから気楽なもんであるが、○畑さんは、ハンドルを握りながら、カーナビを見ながら、携帯電話で目的地と思われるお宅に電話をしなければならない。あっ、それって交通違反かも。礼儀正しい○畑さんのことだから、違反はされません。動き出す前に電話をかけておられたに違いない。

しかし、聞こえてくる話の様子では、個人のお宅の様子。なんぼ何でも厚かましすぎなので、「近くの喫茶店か食堂で待ってますから、おひとりで行ってらして下さい。」と、言ったのだが、「今から訪ねるお宅は、八重芸のOBの自宅で、お祖母さんとお父さんは波照間、お母さんは与那国の御出身です。昨日の公演でtakarinさんの前に座っておられた方ですよ。参考になる話が聞けると思いますし、八重山の民謡を勉強している人ならきっと歓迎してくださいますので、是非御一緒に行きましょう。」とのこと、もうすっかり、歓迎していただくモードになっている自分が恐い。

大体、沖縄では、初対面の人に会う場合、あまり緊張しなくて良い場合が多い。相手の方のホスピタリティの上質さが、こちらに緊張を感じさせないのである。竹富町長とお会いした時も、古謝美佐子さんにお目にかかった時も、「やぁ、」「おゃ、」という感じで、次の瞬間から、優しく微笑んで受け入れてくださった。沖縄の人が、平和と人間関係をとても大切に考えていることを強く感じる。

阿利さん、いきなり実名で申し訳ないのだが、○畑さんのサイトですでに、御家族ごと登場されているので、差し支えないだろう。○畑さんはまず、縁側に向かった。そこが、フローリングの、言わば大きなLDKになっていて、外から来た人も、靴を脱がないで腰掛けて、ゆんたく出来るようになっていた。普段から御客様が絶えないお宅なのであろう。しかし、○畑さんは、すすめられるまま、そこから上がってしまったのである。私はというと、一瞬ためらった。初めておじゃまするお宅に、縁側から上がり込んでしまっていいのだろうか?

だが、誰もそんなことは気にしていない様子。ひとりだけ、玄関にまわって御免下さいという方が、かえっておかしいので、私も縁側から失礼してしまう。つまり、こういうおじゃまの仕方をしてしまうと、初対面の緊張なんてはじめからないではないか。あらためて、お祖母さんとお父さんに御挨拶すると、もう、昨日の公演の話に花が咲き出さした。朝まで打ち上げで飲んでいたという息子さんも二階から下りてきて、大切にされている三味線も触れさせていただいた。

そこに、お母さんが帰ってこられて、机の上に、昼食の準備が・・・・・。あれよあれよと言う間に、机の上がいっぱいになる。これが、沖縄以外の場所だと、「やっぱり、来ない方が良かったんじゃないか。」などと、後悔しはじめたりするところであるが、「さあ、どんどん食べて。」と、勧めてくださる言葉に後押しされるように、「いただきます。」

ここでもまた、○畑さんが、「沖縄の人でもないのに西原町までコンクールを受験しに来られたんです。」と、紹介してくださって、話に参加させていただく。「じゃあ、うちのすぐ裏ですね。」「どうして八重山民謡を始められたんですか。」と、お父さんもやさしい。しかし、公演の話になると、少しだけ真面目な顔になって、「五月雨節は歌持ちがちょっと変だったね。」「初めての人には、ゆんたが多すぎたんじゃないか。」すると、お祖母さんも、「踊りもちょっとおかしかったね。こうするのよ。」と、立ち上がって、扇を使い出す。さすが、芸能の島の御出身である。

楽しい話で過ごす時間は、とても短く感じる。○畑さんが時計を見て、「もっと、ゆっくりしたいのですが、飛行機の時間がありますので。」とおいとまを告げる。「あなたは、来てもすぐに帰るから、今日は長かったほうよ。」などと言われながら、皆さんで送って下さる。お父さんが玄関で「これが、八重山の黒木ですよ。」と声をかけて下さる。「でも、孫の代でも、無理かな。」三味線にする話である。八重山の芸能の奥深さと息の長さを感じさせられたひとことだった。

そして、車は一路那覇へ、と書くと簡単だが、きっと、マラソンを避けたルートを、考えて走っておられるのだと思う。全くもって申し訳ない話である。都心に近づくと、車を止めるのも面倒なので、ゆいレールの首里駅で、下ろしてもらう。お荷物をおろして、心なしか軽くなった車が、軽快に走り去っていった。

さて、こちらは、ゆっくりとゆいレールで移動である。結局、今回始発から終点まで、全線を乗車したことになる。鉄ちゃんではないので、そのことに感動したりはしないが、車が無くても、これだけの距離を移動できるのは、やはり、ちょっとした感動ものである。しかも、首里駅からだと、師匠の練習場所へも歩いて行けそうな距離である。しかも、高架なので、見晴らしがいい。暖かい日差しに、思わずウトウトしてしまう。今回のこの旅も、何だか、このウトウトした夢の続きのような、そんな、すばらしい旅であった。そして、その夢を見せてくださったのは、○畑さんだった。本当に有り難うございました。

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