沖縄・竹富島編2・01.05.05〜06


CDジャケット風

自転車が便利

コンドイビーチ

野原荘の夕食

2001年5月5日(土)

今日も朝から天気がいい。その割にぐずぐずしていると、同宿のグループ客が散歩から帰って来たようだ。どうも朝の散歩はなじみが薄い。朝食を済ませ出発を待つ間に隣の重文の縁側で、三線を抱えた写真を大島保克風に撮ってもらう(知らない人ごめんなさい)。さすがに、かなりはずかしい。

待ちくたびれた頃に真上を飛行機が飛んでいき、それに合わせたかのようにおかあさんが顔を見せた。「用意できてますか?」こんなんで間に合うんだろうか?口には出さなかったこの問いに、彼女は正確に答えた。「ここは飛行場が近いから、飛行機の音が聞こえてから行ってちょうどいいんだよ。」

5人乗りの車に6人が乗り込み空港へ急ぐ。私は本来この手のことは嫌いなのだが、そうは言っていられない。飛行機はもう来ているのだ。飛行場の入り口でおかあさんが苦い顔をする。「覆面のお巡りさんが見張ってたね〜。」ほら、言わんこっちゃない。でも、覆面なのにどうしてわかるの?「人数少ないからね〜。わかるのよ。今日は怒られないみたいだね〜。」常識はいつも常識とは限らない。

帰りの便では、「満席なので」とやはり三線を預けさせられた。滑走路を歩いて乗り込むと、今度は本当に満席だった。

石垣に着いて、荷物を待っていると行きと同じで、三線だけ手で持って運んできた。一応は気遣っているらしい。目立った傷も付いていない。しかし、バックパックだけの時より時間がかかる。急いで、空港バスに向かう。バスなら200円、タクシーなら800円位はかかる。しかも昨日1度乗り遅れている。

離島桟橋まで戻り、そのまま船で竹富島へ向かう。桟橋から野原荘に電話をかける。乗る便を伝えておくと時間外でも迎えに来てくれるのだ。野原荘に着いてみると、正月に泊まった部屋が壊されて、新しい建物が建築中だった。コンクリートの壁に、赤瓦の屋根がアンバランスではあるが、出来上がったらそうでもないのであろう。この島は、島ごと景観を保存するという壮大な取り組みをしている。赤瓦でなかった野原荘の離れも、今度順番がまわってきて赤瓦の建物に変身するのだ。

前回は天気が悪かったためビーチに行けなかったので、早速自転車を借りて出かける。「すいませ〜ん、自転車借りたいんですけど、鍵ついてないんです〜。」「鍵なくていいのよ。かけて落としたら大変でしょ〜。」なるほど。ちなみにレンタルサイクルにも鍵つきの自転車はない。

海に入りたかったので、西岸のコンドイビーチに出かける。この島唯一の海水浴場で、時間によって七色に変化すると言われているらしいが、日差しが強烈なので、15分くらい泳いでさっさと浜にあがった。このまま1時間もいたら、頭の皮がむけてしまいそうだ。そのまま島をぐるっと回ってみる。南の端は、海老の養殖場になっていて観光客は入れないので、東へ抜けて北へ上がる。

北端の美崎御嶽を過ぎたあたりに「安里屋ユンタ」という歌に出てくるクヤマという女性の墓がある。島にやってきた役人の現地妻になるのを断った美人とのことだが、現地妻になると一族の人頭税が軽減される習慣があり、それほど税が厳しかったということだ。温暖で美しい現在の島の様子からは想像できない。墓前に花がなかったので、野の花を摘み、ペットボトルの水をさす。

頭がくらくらしてきたので宿へ戻る。昼間は出歩くもんじゃないと、つくづく実感する。何もしないと暇なので三線の練習でもする。八重山だからやっぱり八重山民謡か。しかしレパートリーは無いと言っていい。「月ぬかいしゃ」と「八重山育ち」ぐらいか。

涼しくなってきたので「竹の子」に八重山そばを食べに行く。ここは昼間はすごいことになっていた。店からはみ出した客が、道を隔てて林の中でそばを食べていた。しかもそっちの方が倍ぐらい人数が多い。とは言っても、テーブルと椅子は出してあったけれど。オンシーズンの昼間はあきらめた方が良さそうである。

ふたたび三線の練習をする。八重山のレパートリーが無くなったので、本島の歌になる。情けない、もっと練習しておけば良かった。島で弾く三線は、音が違って聞こえる。気のせいかも知れないが音の通りというか、はりが違うのだ。つまり、少し上手に聞こえる、ような気がする。

レパートリーは少なくても練習していると時間の過ぎるのが早い。食事の時間もいつもより早いからすぐに夕食になる。野原荘の夕食は女性向けサイズである。炊き込み御飯にフルーツがついておしゃれなのだ。コーヒーもドリップ式である。食事が終わると、ゆんたくタイムの始まりだ。

振る舞いのお酒を飲みながらゆんたく(おしゃべり)していると、にわかにおとうさんが、「小野さん、三味線とってきなさい。」まずいペースである。例によって「買ったばかりですから。」とお茶をにごそうとしたら「なに言ってるの、昼間に、八重山の歌ひいてたでしょう。早くやりなさい。」茶の間で横になっていたので、寝ているのかと思ったのに聞いていたのだ。

しょうがないからあきらめて三線をとりに行く。そこで思い出した。野原荘には歌詞カード集があったじゃないか。「おとうさん、私は歌うのと弾くのと両方一緒には出来ませんから、みんなで歌って下さい。」ということで、宴は始まった。

5月6日

宴で少々飲み過ぎたのだが、朝はつらくなかった。歌ったり笑ったりすると悪酔いしにくいと聞いたことがあるが、ウソでもないらしい。そう言えば小浜島の「うふだき荘」でも夜中過ぎまで飲んだけど飲んだ以上に笑ったので悪酔いしなかった。などと思い出しながら朝食を済ませ宿を発つ。野原荘では出発の際に、客も含めたほぼ全員で手を振って送り出してくれる。遅くなればなるほど見送りの人数が減っていくので早めに発つのがおすすめ。

おとうさんに港まで送ってもらって石垣に渡る。大阪三線クラブの人に、鳩間かなこのシングルCDを探して欲しいと頼まれていたのでアヤパニモールに行ってみたが、営業している店があまりなく、CD屋を見つけることが出来なかった。ブレイク中の鳩間かなこだが、ファーストシングルCDはすでに入手困難なのだ。

ついでに自分用のCDも物色する予定だったので時間が余ってしまった。三線も持っているので徒歩の移動は出来るだけ少なくしたい。色々考えた末に、ミンサー工芸館に行くことにする。名前の通りミンサー織りを中心とした琉球工芸品を販売しているのだが、結構気に入っている場所である。その理由は、空港までバスで約10分と近いこと、入館無料であること、トイレがあること、お茶が無料で飲めること、スタッフが商売商売していないこと、あまり込んでいないことなど色々あるが、今回またひとつ加わった。屋外に設置されている椅子に陣取って、約2時間三線を弾いていても誰からも文句を言われないこと、である。

八重山にしばしの別れを告げるような気持ちで三線を弾いていると、今風の笑顔がさわやかな青年がやって来た。立ち退きを食らうのかと警戒したが、にこにこ笑っている。「いい音色ですね、こっちで買われたんですか?」どうやら友好ムードである。聞けば去年の新人賞に合格したと言う、将来の三線のお師匠さんである。そんな人に聞かれていたのかと思うと恥ずかしいが、今更出したものは引っ込められない。冷や汗をかきながら、三線ばなしでお茶をにごす。「頑張って下さい。」と言って彼はさわやかに去っていった。

<エピローグ>
空港に着いてから事態を把握するまでに大分時間を要した。出発案内に私の乗るはずの便名がないのである。どこを見てもわからないのでスタッフにたずねると、便名は同じだが15分ほど遅れて出発する宮古経由便に変更されていた。出発案内で掲示できる便数が少ないので見つけられなかったのだ。しかし直行便との関空到着時間差はかなりある。新幹線でも1時間遅れたら特急料金は払い戻しになるのに、飛行機はいくら遅れても平気なのは納得できない。帰って洗濯できないではないか。

<エピローグのおまけ>
関空に着いて三線を待っていると、三線を持った人が同じように荷物を待っている。この人どこかであったことがあると思ったら、正月に八重山でたまたま同じ宿になった人であった。再会の挨拶をして、何で三線を持っているのかたずねると、「こわれ物ですから、当然持ち込みです。」と本当に当然のような顔で答えが返ってきた。聞けば今まで一度も預けたことなど無いと言うではないか。

「なめられた。」到着時間が遅れたこともあって、ただでさえ機嫌が良くないのに、追い打ちをかけるように腹が立ってきたので、お誘いしてそばでも食べることにした。関空内のレストラン街に生わさびを出すそば屋があるのだ。彼とおしゃべりしながら、ざるそばをおかわりしてそば湯を飲む頃には、次の沖縄行きの話をしているのだから単純なものである。次は、往復「機内持ち込み」だ。

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